数カ月ぶりに庭の手入れをした。
I have green fingers.
(私は園芸が得意!)
私にとって植物や土と触れ合う時間を定期的に持つことは
自分を健やかに保つために必要不可欠。

それなのに、こんな状態になってしまっていた庭。
言い換えれば、私の心の状態もちょっとしんどいことになっていたということ。

レモンティーツリーに絡まっていたヘクソカズラなどの蔦を全て取り除き
長男が収穫してくれたムカゴで簡単な昼食をすませる。
雑草(野草)も自分が好きなものだけを残して引っこ抜いた。
茂りすぎていたレモングラスとレモンバームもすっきり散髪。

子どもたちが大原から連れて帰ってきた蛙ちゃんの住処、
この小さい池にも日が当たるようになったよ。

まだ空のままの鉢もあるけれど、とりあえずは整理終了!

今までなら絶対に選ばなかった赤いケイトウになぜか惹かれ…
裏庭は赤と黄色でまとめてみました。
心境の変化?好みが変わったのかな?
若い頃はパステルカラーにキュンキュンしていたけど、
最近は濃い色が好き。
どんどん自分を打ち出していくライフステージに達したということなのかもしれないね。

前庭に置いていたラベンダーも裏に移動。枯れた枝を取り除き選定。新しい置き場所、気に入ってくれるといいな。
チャイブの植わっている鉢にはツルの伸びる豆の苗をプラス。紫蘇とバジルの鉢はそのまんまで現状維持。

家の中から一番良く見える場所にはケイトウ、そしてレタスの寄せ植え。観賞用の植物だけではなく、食べられる庭もいいな〜って思うから。
奥の小さな鉢には青いボリジ(エディブルフラワー)の苗も植えたよ。

私たちがこの家に越してくる前からここに根付いている白式部も健在。ツヤツヤした白い実が真珠のようで美しい。

この夏は本当にいろいろあった。
夏休みに入ってすぐに、長男の幼馴染(赤ちゃんのときから兄弟のようにして育った保育園の同級生)が旅行先の海で溺れ、意識不明の重体になった。そのままずっと意識のない状態が続き、数日前に亡くなった。長男と参列したお葬式、冷たくなった友だちの顔を触り、長男は涙を流し「ありがとう」と何度もつぶやいた。
泣きながら、棺桶の中に横たわる自分の子どもに語りかける母親の姿。目を背けたくなるような現実。
事故の知らせを聞いてからしばらくは、自分が普通の日常生活を送ることや楽しむことに罪悪感を覚えたり、親御さんの気持ちを思うと胸が締め付けられるように苦しくて…「奇跡が起こって、ある日あの子が目覚めてくれたらいいのにな」と思いたかったけれど、神様は時には人間には理解し難いような決断を下されることもあるということをこれまでの経験から私は知っている。
「みんなで祈れば奇跡が起こる」「きっとあの子は助かるよ」とは自分の子どもに言えなかった。
どんな結果になろうとも、私たちはそれを受け入れるしかない。

気の遠くなるような道のり、それがどんなに辛くても逃げ出したくても「現実」を行き続けるしかない。人は誰かの為に生きているわけではないと私は思う。
植物たちは、ただただ自分の人生を全うする。自分にしか咲かせられない花を咲かせ、実をつけ、次の世代にバトンタッチをして命を終えてゆく。そしてそれが結果的には他の生命の役に立ち、生命の循環の一端を担うことになる。誰かを幸せにしようと思って花をさかせるわけじゃないと思うんだよね。でもその美しさは見るものの心を癒やし、元気づけ、蜜は虫たちの食料となり、実は動物たちの命の糧となる。枯れた身体は土を肥やし、養分となる。
「7年間、ありがとう」
長男が棺桶に入れる寄せ書きに書いた言葉。
「さよなら」 ではなく 「ありがとう」
本当の意味での「終わり」はないのかもしれない。
今ともに生きられること、出会えた奇跡に感謝して
今を大切に生きてゆきたい。
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もっともっといろいろ書きたいけれど、頭の中がこんがらがってきた…。
今日私が植物たちから受け取ったメッセージは、「自分を生きることに注力すればいいんだよ」ということ。
これをしたら誰かの為になるから、という視点ももちろん大事だと思う。ただ、それだけが先走りしてしまうのは良くない。
親のために、世の中のために、目の前の困っている子どもたちのために…
まずは「自分の心が喜んでいるか」「私は自分を生きているか」
きっとそこが一番大事なんじゃないかな。

庭がすっきりして、私の心もスッキリ♡
色とりどりの花々を見て、子どもたちの心が少しでも元気になりますように。